昭和41年1月14日・夜の御理解


 揃うということは、本当に気持ちの良いものだ。本当にそのお揃いと。
例えば一人着物はお粗末でも、それがお揃いであるというところに、お粗末といったようなのは感じさせません。揃うておることが素晴らしいということになる。
 どんなに綺麗な着物を着ておっても、ね、それがそれ程に晴れない、揃う、今晩の御祈念にこれだけの人数の人が一緒に御祈念をさせて頂いたけれど、どうでした?もう、神様の方でも御霊様の方でも、あの拍手が今日はもうピシーっと一緒でしたね。気が付かなかったですか?皆さん。今日はもう皆、霊神様の前でも神様の前でも、もう見事に一緒でした。ピシーっ、ね、あの揃うという、あの気持ちが良い、あれがね、神様に通うのですよ。バラバラバラバラと拍手をうつよりも、皆が親先生が拍手をされるその、御祈念の座に就いておられる先生のその拍手に揃うと、信心の内容は揃うてなくても、ね、例えば、夜の御祈念なんかは、え~子供もおれば、家族の者もおる、に、参拝の皆さんと、みんな誰も彼もが一緒でしょ。ね、ですから信心の内容は勿論違うのですけれども、その揃うということは一つなんです。ですからその皆が引き立つのです。その素晴らしい、それが神様に通うのです。一つのリズムになって響いていくのです。
 先ほどから、お琴のけいこがあっとりましたがです、どうでしょう、あれに一つの音でも狂うておったらよう聴かれません。ね、あの私は琴の調子がこう、おうていきますね、合わせられます時に、このピシッとこうおうていく時の、あの~一つのリズム感というんですかね、もう大変心良いものです、こちらに響いてくるです。ね、いわゆる、合わせようと、揃えようと努めるその心が素晴らしいんです。あの人が右向いちゃるけん私は左ばむかなでけんちゅうごたる人が中にはあるのです、これではいけませんです。家族の中でもそうです、あれが右っちゆうなら、さっち左ちいわなでけん。そこにそのもめ事っちゆうのが起こるのですよ。ね、これが揃うていくということ、ということはそんなに素晴らしいことなんです。
 今朝も、朝の御祈念の時に私がご神願に頂きまのは、椛目の全体のご信者さんだろうと思われるような方達がですね、みんなこの着物を脱いでですね、同じ一色の着物を着ていかれるところをご神願に頂きました。ね、これはあることを私がお願いさせて頂いておりましたら、そんなことでした。そこんところは朝の御理解に出ておりますから、詳しくまた暇があったら聴いてください。ね、そのことを願わせて頂いとりましたら、椛目全体の人であろうと思う人達が、いわば、その上っ張りをみんな同じ一色に着替えておるところ。だから信心の内容は違いましょう、けれども上っ張りだけは同じなのだと。ね、もう裸になって真からそれを着られる方もありましょう、二枚だけは着とる、三枚だけは着とるね、例えばそれは、ま~ご造営のことに関連することでございましたけれどもです、椛目全体の人がです、様々な願いを持っとりましょうけれども、このことだけは一つなのだと。このことだけは、もう大人も女、ん~男も、年寄りも子供も椛目にご縁のあるすべての者がです、ご造営のすみやかな成就を祈らせて頂くということ、ここに勢が揃うた信心ということの値打ちがあるのです。信心の程度が違う。
 今日の御理解にも、朝の御理解にありました。まだ眠っておる。いうなら信心が寝ておると、ね、寝ておる人は起しゃーいい、起きておる人は座らせればいい、座っておる人は腰掛らせればええ、腰掛けておる人は、立ち上がらせればいいと神様がこう仰るんです。
 ね、本当言うたら、「さぁ~この問題に取り組んでみんなが立ち上がれ」とこう言いたいとこですけども、そんな訳にはいけません。信心の程度が違う。けれども、これだけは同じなからにゃーいけぬとういこと。素晴らしい事ですね。
 今日、お道の新聞の配達されてまいりましたのを、読みたいと思うけれども、その読む暇がなかった。けれども私は、読まんでもいいのですけども、その見出しが…あ~とにかく読まなければおられないという感じ。それは、ちょっとこう開いたら、ここに(書いちゃる?)『桂松平先生と私』という題で、松原竜太郎という先生が書いておられる。もう私どもは、もう桂松平先生と聞いただけでも胸がドクドクする。もう言葉に出しよったら、もう胸がいっぱいになって言われんくらいになる。そのくらいに、いわば桂松平先生と九州の信心を頂いておる者との密接というものがこれはある証拠なんです。ね、そのことが、この頃のお~小倉の記念祭に、難波教会のことが書いてなかったから残念だったと、だからそのこと一筆書き加えるというて書いておられますね、何故かというと難波教会は、桂松平先生が四神様のご神名によって、お前の修行するところは難波以外にないと仰る、四神様が。だから桂先生は教師としての、いわば用意万端というか、信心修行をですね、難波で教会でなさったんです。その時のことが、まぁ~色々、先生のあの、あの時分の今頃いうたらそうんなことがあるもんかなっていうて、言う人がありますけれども、( ? )したものがあるんですね。
 ある時に、ある将軍がですね、いわゆるあの、兵隊さんの偉い人です、何々忠蔵という方が( ? )になられた。そこでその、(副官?)の方が難波教会にお願いに見得られた。その方を、そのことを近藤藤守…え~難波の教会の先生が、あ~その~お取り次ぎをなさったと、なさった。そしてその当時に、修行しておる沢山人達がおりますから、お前たちもこのことを願えと仰る。そして神様から頂いたことをそのままお三宝の上に乗せておけと、自分も乗せておくから、おまえ達も乗せろと仰った。それでその神、そのことを願わせてもらい、そのことについて頂いたことをそれぞれが書いてその、三宝の上に上げられたのを後で開かれたわけなんですね。ところが、近藤藤守先生が頂いておられるのは、「何月何日おかげになる」と書いてあった。桂松平先生が書いておられるのは、「何月何日おかげになる、お礼参拝30分遅れる」と書いてあった。ね、後でそれ開かれてです、近藤藤守先生がそれを大変誉められたということです。そして「今度だけは桂、お前には負けた」というて、その大声上げて笑われたと。これが素晴らしいですね。弟子にさじを投げられてから、師匠が喜んでるんです。ね、「今度は桂お前に負けたぞ」ちゆって仰ったち。やっぱり何月何日に30分遅れて「もう実は出掛けに、こうゆう用がありまして30分遅れました」ちゆうお取り次ぎがあったそうです。本当昔の先生方は素晴らしいと思うのですね。
 弟子から投げられて、本当に赤飯を炊いて祝おうてやるという親方、弟子とういうか、師匠の、そういう私は内容が信心にはほしいと思うですね。豊かな大きな信心がほしいと思うですね。次に、ある時であった。たまたまご結界の奉仕を許されなさった、今日こそは、とにかく藤守先生がご留守中、まぁ~交代の方の者が奉仕になるけれども、まぁ~たま、その~桂松平先生は初めて御結界奉仕された。ほんでも~ご神前、もう帰ってみえたら、もうとにかく先生が几帳面で喧しい(?)、ご神前のお掃除からご結界の掃除から、ま~一生懸命でその( ? )帰ってみられた。はぁ~今日はもうきちっとしておるから、先生が誉められるじゃろうとこう思ってしとった。それで「桂、ちょいと来い」と仰るから、寄らせて頂いた。あ~誉められるばいなと思うて行かれた、ところがその、「桂お前は、師匠に誉められようと思うてから今日はここへ座っておったろうが」( ? )。ね、「そげなん事でおかげになると思うか。ご神前を見てみよ、お三宝が汚れとるじゃないか」と、も~それこそ( ? )。
 もう本当そういう意味合いで、椛目で私も(?)喧し言うんですけどもね。ほしてから、いきなり横ビンタを弾かれた。後ろから沢井という先生が見ておられたが、もうどうなることだろうかと思うて心配されたちね、そしたら、「私が悪ぅございました」というて( ? )誤られたち。( ? )は、あのご伝記にも残っとりますように、非常に気短いお方だった、やっぱり拳をこう握り締められたそうです。だから後ろから見ておられた沢井先生が、これはもう師匠と喧嘩するじゃなかろうかと思うて心配しておったら、(   ?  )を気付かれた時に、「先生、相済みませんでした」というて、お詫びをされたと、ね、そしたら、さぁ~今から九州布教だと仰ってる、最後のお試しだったということなんです。ね、もしそういう( ? )九州布教はいつになっとったか分からなかったと、私はそういうそうな、昔の先生方、昔の先生方といっても、今の先生だって同じなかなければ助からんです。昔だからどうのと、今はこう(  ?  )信心でもやはり同じことなんです。神様に対して一分一厘間違え、違ごとっても出来んのです。ね、これは私が本当に(?)厳しゅう皆さんにも申します、私共が(  ?  )こげんなっとったっちゃ私はお取次ぎはでけませんです。私は善導寺の前通ってお取次を願う時、もう必ずだからこちらの方から、一遍きちっと揃えなければお取次は願えません、善導寺でも。ね、(?)ここで修行された方達が、まぁ~以前は本当に喧しかったけれど、私はこの頃、ま段々その喧しくも言わんように段々ならせて頂いたんですけれども、神様に向かってはそんなもの。
 今日は私、教主金光様の元旦に放送をなさった記事が出ておりましたから、これを読ませて頂きたいと、こういう内容を今日私が申します内容にしたいということになりましたけども、金光様のことを申し上げ、申し上げ遅れました。ですから、今からまたこれをお読みするということは、何かこうご無礼にあたるような気がいたしますから、まぁ~明日の朝でもこれを読ませて頂こうと思うんですけれども、いわゆる、金光様のご信心であるところのすべてを大切にいたしましょうということなんです、結局は。
 それはもうどういう人でもできるち、自分の職場、ね、自分の仕事の場というもの、自分の御用の場、小学生は勉強の場がある、家庭の婦人の者は家庭を守るという場がある、お食事をさせて頂く時に、お食物を粗末にしない、大切に取り扱ういう前に、果たして(?)で、その食物が大切に取り扱われておるかということをですね、もうこんこんと分かりやすい言葉で説いてあります。
 ですから、それはもうその人・・・今日私が申しますように、どんなに大人もおってよからば子供もおってよい。揃うということは、すべてを大切にしようというようなことを、私はすべてを大切にしようと、何事でも、これは物だけではありません。事柄でもそれを大切にいたしましょうと、ということならです、どういうピンからキリまでの人が、それに心がければ出来ることでございましょうが、ね、揃うということは、そういうような意味合いにおいても揃わなければならない。同時に、私は今日揃うという事の内容についてです。いわゆる、桂松先生の例をお話し申しましたがです、ね、私どもが段々頂いていかなければならないということはです、そういう厳しいことの信心の内容もやはり持っておらなければならないということです。そこんところを一つお互いが自分の心の中にしっかり頂いて、信心させてもらう。しかも、どういう明かぬけた信心であろうが、まだ泥のついたような信心であろうがです、ね、結局揃うということにおいては、例えば今晩の御祈念に拍手がきちっと揃うたように、誰でも揃えようと思えば、揃えられるということ。
 ご造営に向かって皆の気持がです。もうそれこそ様々なのである、それぞれの信心の程度において違う事なのである。思いも違う、祈りの力も違う、修行の状態も違う。けれどもやはり上辺だけでもよいから、上っ張りだけでもよいから、ご造営という一色の上着をです、着せて頂くということに、お互いが心がけなければならんと。
 例えばお揃いを着てです、100人なら100人の者がズラーと、それは木綿のものでもよい、お揃いの服を例えば着たとしてごらんなさい、こんなに素晴らしいことはありません。(?)ことはありません。椛目の信心が足並みを揃えるということは、そういうようなことだ。その足並みを揃えるというそのことが一つのリズムになって、私は神様に快い響きになって通うていかんはずがないと、私はそういうふうに信心さして頂くんですね。皆さんもそいうところに一つ、この揃えなければいけません。あれが右向いとるんなら、私は左向くというごたることでは、おかげにはならんということ。どうぞ。


                                  入力者 れい